6月のみ言葉と意向 宗教科 納富幸夫
福岡海星女子学院高等学校の私たちは、4月に「いつまでも残る実」について学び、各自、「いつまでも残る実」を残す決心をしています。そこで今月は、イエス様が父である神のあわれみを示された教えの中から、もう10歩ほど進めて、私たちがいつも『他の人に対して、最もあわれみ深い人になるように』とのイエス様からの積極的な呼びかけを読み取り、一言一句、落ち着いて読んでみたいと思います。特に「ルカの福音書」の中には、父である神のあわれみを示す教えがたくさんあります。その中でも「よいサマリア人」や「放蕩息子」のたとえ話はよく知られています。
ユダヤ人の法律によると、父親は財産を勝手に分配することはできず、「申命記」に長男は三分の二、次男は 三分の一を受けるようにと決められていました。そして父親が実際の運営から退きたい時には、生前にその資産を分割することが許されていました。
「放蕩息子」のたとえ話を見てみましょう。ある人に息子が二人いました。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言いました。父親は、弟の要求に何かしら薄情な冷酷さを感じて、必ずひどい目に遭うのではなないかという不安を持っていましたが、息子の要求を満たしてやります。彼は自分の分け前を手に入れると、すぐに家を離れます。そしてお金を湯水のように使い果たし、ついには豚を飼う身へと落ちぶれてしまいます。しかしその仕事は、ユダヤ人には禁じられていたものでした。律法に「豚を飼う者は呪われる」とあったからです。ここでイエス様は、罪の人類に「彼は本心にかえって・・・」と言わせます。人間が神から離れ、神に逆らっている間は、本当の自分からも離れている。立ち返った時にこそ、本当の自分を見出すことができるというのが、イエス様の信念だったのです。父親は息子の完全な堕落を信じていませんでした。むしろ父親は、人間は神の元に立ち返るまでは真の自分自身ではないと確信していました。「家に帰ろう。そして息子としてではなく、一番低い身分の日雇い奴隷にしてくれるように頼もう」と決心したのでした。ふつうの奴隷は、ある意味では家族の一員であることもありましたが、雇われ奴隷は一日の契約なので、あとは解雇され、もちろん、家族の一員にされることなどはありえませんでした。彼は覚悟を決めて家に戻りました。しかし父親は、息子に「奴隷にしてください」と頼む遑(いとま)を与えませんでした。それどころか、一番良い服を着せ、指輪をはめさせ、履物を履かせてあげたのでした。「着物」は栄誉、「指輪」は権威、「履物」は家の子どもであることを意味します。家族の一員である子どもは皆、履物を履いていますが、奴隷は履いていませんでした。黒人霊歌にありますが、奴隷たちの夢は、『神の子たちがみな靴がはける時がきますように』というものでした。つまり、履物は『自由のしるし』だったのです。それから、息子の帰還を皆で喜ぶための祝宴が始まりました。この話の「真理」はどこでしょうか?よくこれは「放蕩息子の話」と言われていますが、主役は決して息子ではありません。これは『慈愛(じあい)深い父の話』なのです。ここでは息子の罪よりも、父の愛と深いあわれみのこころについて、より多くを語っていることに、ぜひ目を向けてほしいと思います。またこれは、罪の赦しを多く教えてくれます。父親は息子の帰郷を一日千秋の思いで待っていました。息子がまだ遠く離れていたのに、父親はすぐに 見つけ、非難めいたことを一切言わずに赦します。
赦しには、偏愛というかたちの赦しもあるし、誰かを赦したとしてもちょっとしたことばの端やおどし文句などで、その人が罪に対してまだ責任があることをほのめかすような赦し方もあります。かつてリンカーンは、南部の反乱軍がアメリカ合衆国に帰属することが決まり、一人の質問者から問われた時、「私はあの人たちを、我々から去らなかったものとして扱うつもりです」と答えられたと言われています。実に神の裁きは、多くの政党的な人間よりも慈悲深く、人間の愛よりも遥かに広大です。たとえ、人間が赦すことを拒否しても、神はじっと赦されているのです。